作曲 : 間宮丈裕
编曲 : 神尾晋一郎/ゆよゆっぺ
徳田秋声「爛」
橘マロン「赤のハイヒール」
物心ついたときから、父の姿はなく、
幼少のころは幾度となく母にたずねてみたが、
そんな人は始めからいない、と言われた。
初めての土地というのを、これまであまり経験したことがない。
信号が変わったことを告げるチープな電子音に顔をあげると、
横断歩道の向こう側に母娘の姿が見えた。
幼稚園児くらいの子どもが、
横断歩道の白とグレーの間で母親の手にぶら下がりながら飛び跳ねている。
どこにでもある日常の一コマが、
何か特別な意味を持つ心象風景になった。
日ごろ張り詰めていた胸の悩ましさから、
急に放たれたような安易な寂しさが、心に漲って来た。
物思いに耽っていたが、展開せずに、
幕のおりてしまったような舞台の光景がもの足りなくも思えた。
ただ、できるだけ早く母親と離れて、
自分の力で生きてみたかった。
ブザー音が車内に鳴り響き、ゆっくりと電車は動き始めた。
左右には田畑が広がり、秋の実りが鮮やかだ。
幾重にも重なる黄金色の稲穂が目に眩しい。
ちがう、うちのお母さんは昼に働いてないし、
夕飯はたいていコンビニの弁当で、
洗濯は自分でしている。
夜になると化粧をし、
派手な服を着て、香水をまとい、
赤のハイヒールを履いて、部屋を出ていく。
たばこと酒の匂いで夜中に目が覚めることもあったが、
朝になっても、母の姿がないこともしばしばあった。
日ごろ張り詰めていた胸の悩ましさから、
急に放たれたような安易な寂しさが、心に漲って来た。
物思いに耽っていたが、展開せずに、
幕のおりてしまったような舞台の光景がもの足りなくも思えた。
目が覚めた時には、男のサンダルも赤のハイヒールもなくなっていた。
車両がレールの継ぎ目を通過するガタンという音が不規則に響く。
電車がゆっくりと減速し、窓際に座っていた女子高生が席を立った。
空を眺めてみる。
淡い青に薄墨を垂らしたような雲が流れている。
どこからか畑を焼く匂いが漂ってくる。
短い間ではあったが、
それまで積み上げてきたものがすべて崩れ落ちてしまった。
一瞬の出来事が、ほんの少しの奢りが、すべてを壊してしまった。
とりあえず歩いてみよう。
およそこの場には似つかわしくない、それを手にさげ、
一本道の先に目を凝らしてみる。
この先に何があるのかはわからないが、
このまま進んでいくことは、
あながち間違いではないような気がしている。
日ごろ張り詰めていた胸の悩ましさから、
急に放たれたような安易な寂しさが、心に漲って来た。
物思いに耽っていたが、展開せずに、
幕のおりてしまったような舞台の光景がもの足りなくも思えた。
やがて新しい幕が、
自分の操り方一つで
そこに拡がって来そうであった。