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金閣寺
三島 由紀夫
不思議はそれからである。
何故ならこうした痛ましい経過の果てに、
漸くそれが私の目の前に美しく見えだしたのである。
美の不毛の不感の性質がそれに賦与されて、
乳房は私の目の前にありながら、
徐々にそれ自体の原理の裡に閉じこもった。
薔薇が薔薇の原理にとじこもるように。
私には美は遅く来る。
人よりも遅く、
人が美と官能とを同時に見出すところよりも、
遥かに後から来る。
みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、
肉を乗り超え、
不感のしかし不朽の物質になり、
永遠に繋がるものになった。
私の言おうとしていることを察してもらいたい。
又そこに金閣が出現した。
というよりは、
乳房が金閣に変貌したのである。
私は初秋の宿直の、
台風に夜を思い出した、
例え月に照らされていても、
夜の金閣の内部には、
あの蔀の内側、
板唐戸の内側、
剥げた金箔捺しの天井の下には、
重い豪奢な闇が澱んでいた。
それは当然だった。
何故なら金閣そのものが、
丹念に構築され造型され虚無に他ならなかったから。
そのように、
目前の乳房も、
おもては明るく肉の耀きを放ってこそおれ、
内部は同じ闇でつなっていた。
その実質は、
同じ重い豪奢な闇なのであった。
私は決して認識に酔うていたのではない。
認識はむしろ踏み躙られ、
侮蔑されていた。
生や欲望は無論のこと！
しかし 深い恍惚感は私を去らず、
しばらく痺れたように、
私はその露わな乳房と対座していた。
こうして又しても私は、
乳房を懐へ蔵う女の、
冷め果てた蔑みの眼差に会った。
私は暇を乞うた。
玄関まで送って来た女は、
私の後ろに音高くその格子戸を閉めた。
寺へ帰るまで、
なお私は恍惚の裡にあった。
心は乳房と金閣とが、
かわるがわる去来るした。
無力な幸福感が私を充ちたしていた。
しかし 風に騒ぐ黒い松林の彼方、
鹿苑寺の総門が見えて来たとき、
私の心は徐々に冷え、
無力は立ちまさり、
酔い心地は嫌悪に変わり、
何者へと知れぬ憎しみが募った。
「又もや私は人生から隔てられた！」
と独言した。
「又してもだ。金閣はどうして私を護ろうとする？
頼みもしないのに、
どうして私を人生から隔てようとする？
なるほど金閣は、
私を堕地獄から救っているのかも知れない。
そうすることによって金閣は私を、
地獄に堕ちた人間よりもっと悪い者、
誰よりも地獄の消息に通じた男にしてくれたのだ。
ほとんど呪詛に近い調子で、
私は金閣にむかって、
生まれ始めて次のように荒々しく呼びかけた。
「いつかきっとお前を支配してやる。
二度と私の邪魔をしに来ないように、
いつかは必ずお前を我が物にしてやるぞ」
声はうつろに深夜の鏡湖池に谺した。
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